励ましの言葉

 次の日、視線が冷たかった。山崎君が怪我をしていて、女の子も男子もからかうようなことを言っていたけれど、私はうな垂れてしまった。
「どういうつもりよ。山崎君は試合前の大事な体なのよ。あなたが怪我したって困らないけれど」と違うクラスの女の子に言われてしまい、
「そういうことまで言うなよ」と戸狩君が止めてくれて、
「何言ってるのよ」とミコちゃんが寄ってきて、怒ってくれた。
「でも、試合に負けたらどうしてくれるのよ。出られなかったら」と言われてしまい、確かにその通りだなと思って、何も言えなかった。
「気にすることないんだからね。事故なんだから」とミコちゃんが言ってくれたけれど、私はあまりに悪くて何も言えなかった。

 帰ってからも風当たりが強くなった。部活をやっていても、後輩がひそひそ言い出して、バスケ部の方も近くを通りかかるたびに、ひそひそ言われてしまい、いたたまれなくて人がいないところで休憩していた。
「来なくなればいいのよ。疫病神」と一之瀬さんが言っている声が聞こえて、泣いてしまった。山崎君が試合に出られなかったらどうしよう? なんて言って謝ったらいいんだろう? あの後、何度か、謝ったけれど、「お前のせいじゃない」と言ってくれて、でも、とてもじゃないけれど、顔もまともに合わせられなくなった。
「あの……」と一度、誰か女の子が寄ってきて、何か言いたそうだったけれど、やめていた。
「なにか?」
「あ、いえ」と言って、逃げていった。その姿を一之瀬さんたちが目撃して、
「何よねえ。早く来なくなってくれればいいのにねえ」と言ったため、困ってうつむくしかなかった。
「やめなさい」と後ろから小平さんが来て、
「あなたもいつまでも悔やんでいないで、切り替えてちゃんと練習をやって」と言われてしまい、練習に戻った。
 
 家でいじけていたら、コンと音がして、窓を見た。山崎君が来ていて、
「出かけよう」と言ったので、びっくりした。
「練習は?」
「走ったりはしているよ。それなりにできることをね」
「ごめんね」
「謝るな。それから、お前のせいじゃないからな」と言われて、困ってしまった。
「約束してたからな。ちょうどいい機会だから、歩こうぜ」と言われて、一緒に外に出るように言われたけれど、そんな気分になれなくて、
「どうしたんだよ?」と聞かれて、
「ごめんね」と泣いてしまった。
「泣き虫だよな」と言って、そこから家に入ってきてティッシュを持ってきて拭いてくれた。
「あの後、聞いたぞ。声の主を先生は半信半疑だったけれど、俺は調べてやるよ。心当たりはあるし」
「誰?」
「問題はそいつらが認めないかもしれないから目撃者だよな」
「そんなこと」
「大丈夫。俺は信じてるからな。それにあれは事故だ。お前のせいじゃない。石の話が本当なら、そいつらは逃げたってことだからな。許せないよ」
「でも」
「とにかく、外に出ようぜ。このままだと俺も試合におちおち出られないよ」
「大丈夫なの?」
「時間ギリギリまでやるしかないさ。気分転換も大事だから、散歩しよう」と言われて、外に出ることにした。自転車だと、まだ左手の手首とか痛いらしくて、歩いてきたらしい。
「体力あるね」
「手首って、何度か傷めてるからな。この機会に休めたほうがいいのかもな」
「そうなの?」
「小学校のときに鉄棒から落ちてね。大車輪したら失敗した」
「危ないじゃない」
「そういうことは男ならみんな挑戦するんだよ。お前も木登りとかしたくせに」
「だって、やらないと遊べないような場所だったよ」
「どんな田舎なんだよ」と笑っていた。かなり歩いて一度立ち止まった。
「この辺りに、池があったよな。埋め立てられてるよな」と言ったので、
「よく覚えてるね」と聞いてしまった。
「こっちにシロツメクサがいっぱい生えていてね。よく編んでもらったんだよ」
「誰に?」
「ガールフレンド」
「女友達と言ってよ。その言葉は聞きなれないなあ」
「楽しかったよな。あのころは、毎日毎日、一緒にいてね。俺も弟ができる前で、母さんが入院していて、家にいれなくて、いつも祖母さんの所に遊びに行っていた」
「そうだったんだ」
「その子も一人で家にいるのがつまらないと言ってね。それでよく遊ぶようになった。二人で色々やっていた。毎日のように編んでくれたのがシロツメクサの首飾り。もっとも腕輪に変更になることも多かったけれど」
「そうだったんだ」
「この辺り、子供が少なくて、俺とその子ぐらいしかいなくてね。近所にいたガキ大将にいじめられてるのを追い払ったりしたな。泣き虫だったからね、その子は」
「そうなんだ、優しかったんだね、その頃から」
「爺ちゃんの家でも遊んだよ。ピアノが好きでよく触っていて、俺が教えたりしたなあ。『弾いて、弾いて』とせがまれて、何度も弾いてたよ。反対にその子が本を読んでくれたりね」
「楽しそうな思い出だね」
「ああ、楽しかったからな。だから、その子と会えなくなってかなり寂しかったよ」
「引っ越したんだっけ? 団地だと同じ学年の子とか多そうだね」
「すごい人数いたよ。だから、誰が誰やら、毎日メンバーが代わっててね。引っ越すのもすぐだから、名前も覚えずに会えなくなるのが普通だったな。あだ名ぐらいしか知らなくても、平気で遊べるからな」
「どこに住んでいるとか知らないの?」
「いちいち覚えていないよ。一年でどれぐらい変わると思うんだよ」なるほどね。
「女の子も鬼ごっこしてたから、そういう遊びは出来なくてね」
「そうなの?」
「公園しかないんだよ。自然があまりないところでね。公園も遊具は争奪戦だし、熾烈だったな」
「すごいんだね」
「だから、時々思い出してたな。その子と遊んだ思い出をね。のんびりしてたよ」
「大切な思い出なんだ」
「そうかもな。初恋だって爺さんが言ってたけれど、その通りかも」
「初恋?」と笑ってしまった。
「なんだよ、笑うなよ」
「だって、似合わないよ。硬派とかクールとか言われてるのに」
「誰でも、そういう時期はあるだろうしな」
「私は覚えていないからなあ」
「そのうち思い出すさ。こっちに畑があったよな。雑木林があって」
「本当によく覚えてるね」
「写真を取ってあるからだよ。その頃は爺さんが趣味でよく撮ってくれた」
「その子とも?」
「ああ、いっぱいあるよ」
「今度見せて」と言ったら、困った顔をしていた。
「駄目なの?」
「いや、そういうわけじゃないけれど。そっちは残っていないのか?」
「奥にしまってあると言ってたよ。家に開かずの扉があるから、その中かも」
「開かずの扉?」
「そうだと言ってた。入っちゃいけないって何度か注意された」
「ふーん、変わった家だな」
「父一人、子一人だから、それでも困らないからかも。ミコちゃんのところは部屋数が多いみたいだけれど、後は、自分の部屋がほしいって何人か言ってたよ。碧子さんは和室なんだって」
「ああ、すごい家らしいぞ。離れもあるって」
「知ってるの?」
「戸狩が家に行ったらしい」すごいかも。彼女は家が反対方向で、そこまで行った事がなかった。
「山崎君は昔どこに住んでいたの?」
「行ってみるか?」と聞かれて、うなずいた。おじいさんの家の方に行き、途中で違う道に入って行った。ここ? 
「どうかしたか?」
「何でもない、なんだか来たような事がある気がして」
「この奥だよ。こっち」と言われて、割と新しい家が何軒か建っていてがっかりしてしまった。期待していたものと違っていたからだ。
「アパートだと思ったのに」
「そうか、思い出しているのかもしれないな」
「え?」
「アパートだったんだよ。4部屋あった。小さくてぼろくて、倒れそうだったけれど、近くにまともな貸家がなくて仕方なくね」
「そうだったんだ」
「潰される事になって、爺さんが体壊して、そっちに引っ越した。遊びに行くと説教ばかり言われてね。うるさかったよ」
「でも、色々いい事を教えてくれるじゃない」
「そういうところはありがたいよ。今でもね」
「こっちはのんびりしているけれど、あっちの学校は熾烈だったよ。その代わり部活の数も多いし、設備も新しいし、似たような家庭環境だったから、こっちみたいな感じではなかったな。こっちは足を引っ張るヤツが時々いるよな。あっちはライバル意識は凄かったよ。少しでもいい高校に行きたいからって、中学に入る前から勉強が大変になったな。
「そうなの? こっちはあまり私立にはいかないし」
「周りのどこの高校、中学に行くとか、塾に通うとか、小学校の4年生とか5年生になると勉強する子の方が増えたよ」
「私立に行く人が多いんだね。こっちは学年に数えるほどしか私立中学の受験しないからね。それに、こっちは塾に行ってる子のほうが、成績が悪いと言われるからね」
「ああ、聞いたよ、塾に行ってるのにあの成績でと、去年の保護者会の時に言ってるのが聞こえた。一番後ろだから、丸聞こえだったよ」聞きたくない、親の本音だなあ。
「この辺りは塾だって、少ないと聞いてる。前のところは塾も多くてランクがあってね」
「ランク?」
「目指すところによって分かれてるんだよ。入るときにも試験がある」
「塾なのに?」
「そうだな。少し歩こうぜ」と言われて、また引き返した。おじいさんの家の方とは違う道を行った。
「色々あるんだよな。お前のところは田舎だったんだろう? そういうのはなさそうだな」
「高校まではみんな一緒が当たり前だったから」
「なるほど」
「勉強が出来なくても、運動が出来る子のほうが注目されてた。それに、仲間はずれもしないし、みんな仲がよかったの。男子と話しても冷やかしたりしない。仲良くて、みんなの親とも顔見知りでね、よく帰りに『果物やら野菜やら、持って行け』と言われたの。お茶を飲みたくなったら、どこでも寄れたし、トイレもどの家でもフリーパスだった」
「かなり田舎だな」
「おじいちゃんが、世話役をしていて、よくみんなが集まってにぎやかだったな。懐かしいな」
「戻りたいのか?」
「戻れないよ。おばあちゃんは入院するために少し離れたところにある病院に入って、退院すると戻っての繰り返し。本当は通院するためにアパートかこっちに一緒に住んだらって言ってたけれど、離れたくないんだって。私もあっちの方があってたなあ。この学校は辛すぎる。仲が悪いから」と言って、うつむいた。
「お前のせいじゃないからな」
「また、迷惑掛けちゃったね。山崎君に何度も」
「迷惑じゃないよ」
「なんだか、部活をやめたくなってきたな。楽しくないし」
「テニス嫌いなのか?」
「そういうことさえよく分からなくなってきた」
「俺はやめたくないな。シュートが入った瞬間がうれしいしね。俺はボールの感触も好きだし、バスケも好きだからやめない。どんな事があっても続ける。絶対に」
「強いんだね」
「足の引っ張り合いはどこにでもあるさ。お前のところは特にひどいのは、一之瀬がいるからだ。あいつは負けず嫌いだし、お前のことは目の敵にしているから」
「どうして?」
「気に入らないんだろうと思う。いじめっこだから」
「いじめっこ?」
「弱いものを認めたくないんだよ。弱いものいじめする理由は認められないから」
「よく分からない」
「人の弱さを見ると腹が立つんだと思う。自分に弱さがあるからだろうって爺さんが言ってたけれどな」
「自分に弱さ?」
「甘えと受け取るんだよ。甘えたいけれど、甘えられないヤツがああなるって、俺もよく分からないけれど、認めたら自分が駄目になると思いこんでいるらしいぞ。だから、認めてほしい気持ちの裏返しだって」
「認める?」
「一之瀬は部長になって、『強いね、すごいね』と褒めてもらいたい。でも、実際は?」ないかも。自分で言ってるけれど、あの性格のせいでそう言えば、「すごいね」と褒めてくれる人はいないかも。
「小学校の先生にはいつも話しかけていて、気に入られて褒められてたかも。中学では成績とかよく知らなくて」
「あまり良くないらしいぞ。そのせいもあるから、よけい、テニス部での居場所を気にしているのかもな。先輩に取り入っていたのは、その小学校の先生のことで同じ気持ちを味わいたいからだろうな。認めてもらって褒められて」
「褒めるといいの?」
「そうらしいけれど、俺は褒めたくないな。取り入る男子もいるけれどなあ。俺、ああいう作為的なことは苦手」
「私もだ」
「色々なタイプがいるさ。認められたい、褒めてもらいたい、目立ちたい、そういう気持ちは誰にでもあるさ。但し、それに向かって真面目に努力するかどうかはその人しだい。やらずに足を引っ張るヤツ、人の幸せを妬んで物を隠すヤツ、いやな噂流すヤツ、お前に石を投げて晴らすヤツ、色々だ。俺はそういうヤツは嫌いだから許せないけれどな」私も理解不能だ。
「お前は自分のできることをやればいいさ、何か見つけろよ。自分のやりたいこと、好きなこと、勉強や運動以外にもいっぱいあるさ。漫画描いてる須貝、星の事なら何でもござれの光本、鉄道マニアの遠藤、女の子だとお洒落とか、髪の毛とかに命掛けてる子もいるし」
「いたね」
「何でもいいから、探せ。ああ着いたな」と言い、建物を見上げた。ここは? 
「見覚えがある気がする」幼稚園だった。
「変わっていないよな」
「え、知ってるの?」
「俺もここだった。もっとも、この辺りは全部ここだったけれどね」
「そうなんだ?」
「思い出せそうか?」
「さあ」
「あっちも行こうぜ、校庭とか見えるから」と言われて、移動した。なんだか、懐かしいような気もする。
「俺はいじめっ子と喧嘩ばかりしていてと言ってた」
「だれが?」
「母さんが。それはなんとなく覚えてるよ。女の子とばかり遊んでて、軟弱とか言われて、遣り合ってた気がする」
「女の子って、さっきの?」
「ああ、その子が泣いててね。それで遊ぶようになって。それで、それまで遊んでいたヤツが面白くなかったらしいぞ。ちょっかい出して、その子をいじめて……と母さんが教えてくれた」
「そうなんだ」
「でも、後で聞いたら、そいつもその子と遊びたかったらしくて、『俺とじゃないのかよ』とつっこみたくなった」と言ったので笑ってしまった。

 帰るときにおじいさんの家に寄った。
「なんだ、来たんだな。腕は大丈夫か?」と聞かれていて、
「湿布張替えに来た」と庭から入った。
「いい加減、玄関から来いというのに」とおじいさんが笑っていた。
「詩織ちゃん、いらっしゃい。来てくれないと寂しくてね、こいつも私も」と言ったので笑ってしまった。
「変なこと言うなよ」
「昔からそうだったくせに」
「え?」
「麦茶くれ。お前も来いよ。のど渇いただろう?」と言われて、
「そう言えば、汗かいた」と言って、そっちに行った。
「試合出られそうかな?」
「五分五分だな。出られたら、記念植樹しような」
「何植えるの?」
「食べられるものにしよう」と言ったので笑ってしまった。
「なにがいいかな」と話したあと、
「試合はどこでやるの?」と聞いた。
「第三中学だよ。大きいらしいぞ。体育館が2階建て。順当に行けば、3回戦の学校が一番手ごわいな」
「そうなんだね。応援にいければいいなあ」
「来いよ。待ってるから」
「でも、きっと」
「気にするなよ。お前のせいとか色々言ってる子もいるけれどな。お前に怪我がなくてよかったんだよ。顔に怪我でもしたら、女の子だから大変だ。そういうこともよく考えないで石とか投げるあいつらは許せない」
「犯人を知ってるの?」
「それは俺に任せて、お前は部活に集中しろ。秋に試合があるんだろう? 勝てるようにやらないとな」と言われてうなずいた。
「お前、辛いならあの先輩にでも、相談してもいいし。俺でもいいから言えよ」
「先輩は気まぐれだから無理」
「それでも恋人か?」恋人ねえ。
「なんだよ、その顔は。じゃあ、やっぱり弘通君に聞いてもらうとか」と仏頂面したので、
「どうしてそんな顔をするの?」と驚いた。
「あいつの事が好きなのか?」と聞かれて、
「いい人だよね。紀久ちゃんと上手くいってほしかったのに」
「ふーん、それで本当の気持ちは?」
「本当の気持ち?」
「お前の本音だよ」
「本音?」
「加賀沼たちが言ってたよな。唯一いいことを言ってたよ。綺麗事を並べてもあいつらは無理かも。本音を言えと。俺もそれだけはそう思う。『いい子ちゃんぶって』と何度か言ってるのを聞いたよ。あいつら、友達だろうとなんだろうと自分優先、抜け駆けもありだからな。だから、お前見てると偽善者ぶってるように見えるんだろうと思う。友達のために諦めるなんて、あいつらはないからな。もっとも、お前は遠慮しすぎるから、本音を言った方が俺もいいと思う」
「本音ねえ」
「それでどう思ってるんだ?」
「さあ、そう言えば、そういう風に考えた事もない」
「あいつとよく話していたじゃないか」
「ほっとするの。全部受け入れてくれるでしょう? 弱音も黙って聞いてくれて、全部最後まで優しい顔で聞いてくれる人なんていないもの。先生だってしてくれない。先輩だったら、『ほっとけ、あほか、弱いよな』のどれかで片付ける。そういう事を聞いてくれるとほっとするなあ」
「俺は?」
「そう言えば聞いてくれるね」
「そうじゃなくて」
「え?」
「いいけれどな。お前はもっと自分も見ろ。余裕がないのはきっと家族の事とか色々あったから自信がないだけだろう。母親がいない分、どうしてもそこで、問題が出てきてるだけかもな。自信つけろよ。何でもいいからな」
「勉強でもしろと?」
「テニスでもいい」
「強くなれないよ。体力ないし腕力ないし」
「身体能力も大事だけれど、中学生レベルなら、それ以外で補えばいいさ、プロになるわけでも全国区で戦うわけでもない。地区予選なら、自分に合った戦い方を見つけろよ。それでいいと思うけれど」そうやって考えたこともないかも。
「背が低くてもプロ野球やってる人もいるさ。体が貧弱でもボクサーになった人もいる。そういうのもばねにしてやってる人はいくらでもね」
「山崎君は恵まれてるから」
「俺はもう少し背がほしいよ」
「高い方でもないか」
「今はね。高校で伸びる予定」
「そうなの?」
「そうでないと困る」と言ったので笑ってしまった。
「何でもいいさ。やってみろよ。俺もがんばるから、お前もがんばれよ」と言われてうなずいた。

 帰るとき、家まで送ってくれて、
「応援に来いよ。一回戦とか間に合わないかもしれないけれど、3回戦には絶対出たいからな。だから、そのときに来いよ」と言われて、困ってしまった。
「待ってる」と言ったので、仕方なくうなずいた。
「じゃあな」と言った声を聞いて、なんだか、変な気分になった。
「そう言えば、あの時、誰かに名前を呼ばれたの」
「あの時?」
「崖から転んで落ちたとき、誰かが『詩織』と」と、言ったら、黙っていて、
「気のせいだろう」と言って、歩いて行ってしまった。後姿を見ながら、私にできる事ってなんだろうなと考えていた。

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