記憶がないわけ

 なんだか、言い出しづらいなあ……と考えてしまった。どう言えばいいんだろうな……と思っていた。父からああ言われたものの、やはり変だなあ……と考えていた。廊下でぼんやりしていたら、
「ぼんやりさんだよな。また何か言われたか?」と拓海君がそばに寄ってきた。
「週末って予定ある?」
「ないよ。部活も休みだ」
「そう」
「なんだよ?」
「父に言われたの。一緒に来てほしいところがあるって」
「俺もか?」と聞かれてうなずいた。
「そうか……」と考えていて、
「昨日、おばあちゃんと話していたの。おばあちゃんのところに一緒に行ってほしいって突然言い出して、理由を聞いたけれど、教えてくれなかった。記憶と関係があるのかも」
「記憶?」
「忘れてるから、そのことかもね。やはり変だもの。記憶力はいいほうだと思うのに、なぜか母の記憶がすっかりないのは絶対変だもの。きっと、何かあったんだと思う。父と何か」
「大丈夫だよ。だったら、一緒に行った方がいいな。それに楽しみでもあるよな」
「どうして?」
「木登り、逆上がり、川遊び。どこで遊んでて暮らしていたかを見られるからね」
「やだなあ」
「どこで転んだかも言えよ」
「えー、それは嫌だ」
「面白そうだよな」とうれしそうだった。

 週末に、父の運転で一緒に行くことになった。彼の家に迎えに行き、父と2人で挨拶してから出かけた。私は疲れて寝ていて、彼も同じように寝ていた。
「よく寝るよなあ」と父がぼやいていた。田舎の道は疲れた。舗装されていない所がところどころあるし、おちおち寝ていられなかった。すれ違えないような細い道もある。だから、父はここから通勤するのは疲れるという理由で、会社の寮に入っていた。着くまでに時間が掛かったけれど、懐かしい風景を見ていて、色々思い出していた。
「田舎だよな。確かに、蛍がいそうだ」と拓海君が笑っていた。
 おばあちゃんの家に着いたときはお昼になって、一緒にご飯を食べた。
「詩織が元気そうでほっとしたわ」とおばあちゃんが笑っていて、昔話をいっぱいしていた。居間に移動してから、おばあちゃんが話を始めた。
「詩織の記憶がないのはね。しょうがないの」と言ったので、びっくりした。
「何から、説明した方がいいのか。そうね。詩織が園絵さんと別れたときのことから説明しましょうか。あの時は、ひどい状態になってしまったの。お母さんと別れる事がよほどショックだったらしくてね。それで夜中に起きて、何度もノックしていたの。『お母さん、どこ?』とね」
「ノック?」
「そう、お母さんがいそうな場所をノックして、扉を開けていたの。夜中もそうだし、起きてからも、いつもやっていたの。その頃は私も、そっちの家に行っていたから、よく覚えてるわ。心配でね。びっくりして、それはずっと続いたの」
「ずっと?」
「そうよ。だから、夫婦の寝室も閉じることにしたけれど、でも、中々その癖は取れなかった。いくら説明しても、理解できなかったらしくて、『お母さんはどこ?』と言っていて」とおばあちゃんが、思い出したのか涙ぐんでいた。
「そうだったな。毎日だったよ。本当に毎日でね。困ってしまって。色々あったし、こっちも余裕はなくてね」と父が言っているのを聞いて、そんな事があったから、あの部屋を閉じたんだと気づいた。あのベットのじゅうたんの痕はお父さんとお母さんの寝室だったからだろうな。
「それで、こっちに引っ越す事に決めてね。でも、それでも、直らなかったのよ。そのうちひどくなって、夜にこの辺りを歩き回るようになってしまって」とおばあちゃんが言ったため、びっくりした。
「そんなことが」と拓海君が驚いていた。
「そうなの。よほど、ショックだったんでしょうね。だから、さすがに危ないから、そういう方面に詳しい人に相談してね。それで、あまりに困っていたから、その人に頼んで記憶を消してもらったの」
「え?」と私と拓海君はお互いに顔を見合わせた。
「本当は、こっちに引っ越す前に相談していて、その話はしていたけれど、さすがにそこまではできなくてねえ。迷ってはいたの。一時的にとはいえ、お母さんの記憶を消すなんて、躊躇うからね。でも、あまりにひどくなっていくばかりで情緒不安定、毎日泣いてばかり、近所でも色々言われるようになったため、そういう決断を下したのよ」
「そんなこと……」と下を向いた。知らなかった。
「どうやったんですか?」と拓海君が聞いていて、
「別の記憶を植えつけたのよ。その辺は、難しいから私も説明できないけれど、お母さんがいなくなったという記憶の代わりに、お母さんは亡くなった、死んでしまったという記憶に変えて、こっちに早めに引っ越した事にしたの。いとこと一緒に遊んだ記憶を埋め込んで、お母さんとの思い出や、幼稚園の頃の思い出を消してしまったのよ」
「そんなことできるの?」
「そこまではよくわからないけれど、一時的に記憶を遠くに押しやると言ってたわ。詳しいことは分からない。それにね、いつ思い出してもおかしくないんですって。たまたま、今までは記憶を思いだすことはなかったけれど、何かのきっかけで思い出すこともあるそうよ。個人差があるようで、なんとも言えないらしいけれどね」
「そうなんですか」と拓海君が考えていて、
「拓海君の記憶は? ひょっとして、それも消してしまったの?」と聞いたら、父もおばあちゃんも困った顔をしていた。
「そうね、それをちゃんと説明しないとね」とおばあちゃんが言った。
「彼のことは、私もあまり知らないの。でも、仲がとてもよくて、毎日遊んでいたそうで、だから、引っ越すときに『離れたくない』と泣いたの。その動揺もあったんでしょう。詩織はご飯も食べなくなってしまってねえ。毎日、泣いてばかりいて、だから、彼の方も消してもらったのよ。そのほうがいいと思ったの。そうでないと困るからね。拓海君は園絵さんと同じ時期に一緒に過ごしていたのだから、何かの拍子に思い出してしまうと困るし、何より、こっちに引っ越してからも『手紙を書く』と何度も言い出して、だから、苦渋の決断だったの。拓海君と手紙のやり取りをさせるわけにはいかなかったのよ。だって、手紙にお母さんのことを書かれたら困るからね。近所にはお母さんは死んだということにしてあったの。外聞が悪かったし、でも、詩織の記憶の事もそのときには消そうという話になっていたしね」
「どうして? どうしてそんなこと……」とうつむいた。拓海君が手を握ってくれて、
「いとこと遊んだ記憶があるそうですか、それも嘘なんですか?」と聞いてくれた。
「ええ、いとこ達は、そのときはもう引っ越していたの。元々一緒には住んではいたけれど、小学校に入るために引っ越したの。ここだと不便だからという理由よ。だから、写真は別の時に撮ったものを詩織に見せて、記憶をすり替えたの」
「そうですか……」と彼が考えていて、
「取り戻せないの? もう、ずっと取り戻せないの?」と聞いたら、困った顔をしていた。
「そうね、そういうことも出来なくはないそうよ。でも」
「何か問題でもあるんですか?」と拓海君が聞いてくれて、
「いえ、ただね。そのとき、詩織がすごく動揺していたから、その記憶まで思い出してしまうと辛いんじゃないかと思って」とおばあちゃんが言った。
「思い出したいよ。だって、なんだか、どうしていいか」
「その事はゆっくり考えればいい。永井に相談したら、そう言っていたよ」
「どうして、永井さんが?」
「あいつは心理カウンセラーなんだよ。だから、あいつに、その記憶の操作をしてもらう人を紹介してもらったんだよ。詩織には悪いとは思っていたんだよ。でも、あまりにひどかったんだ。毎日、夜中に突然泣き出して、それが、あまりにもかわいそうでね。山崎君にも悪いとは思ったけれど、詩織のためだったんだよ」と父が言ったのを、拓海君は黙って聞いていた。
「お母さんはそれを知ってるの?」
「いや、話していないよ。話す必要もない。あんな女に」と父が言ったので、どこかでまだ憎んでいるのかもと考えてしまった。
「あの人にもいつか話さないとね」
「しかし……」と父とおばあちゃんが顔を見合わせていた。
「とにかく、そういうことだから。詩織には悪いことをしたと思ってるわ。でも、あのときの選択は間違っていなかったと思う。それぐらい、詩織はやつれて動揺していたの。お母さんがいなくなる事が子供にとってどれぐらい辛い事か、わかってほしいの」とおばあちゃんが拓海君に言っていて、私は下を向いて考えていた。

 一緒に、散歩をしていて、
「良く、考えればいいさ」と拓海君が言った。
「でも」
「俺のことは気にするなよ。俺に取っては大事な思い出には代わりないからね。お前が徐々に思い出してくれればそれでいいし、思い出してくれなくても」
「辛くないの?」と聞いたら、しばらく考えていた。
「そうだな。詩織とそういう思い出を共有できないことは辛い事かもしれないけれどね、でも、ほっとしたよ」
「どうして?」
「お前のせいじゃなかったと分かったからね。手紙をくれなくて、寂しかったけれど、そういう理由ならしょうがないから。それが分かっただけでも」
「ひどいよ」
「そうかな? 仕方ないと思うよ。もしも、そのままだったとしても、立ち直るのに時間が掛かりそうだし、トラウマになっても困るよ。お母さんとお父さんが離婚したなんて、田舎だと色々うるさそうだぞ。だから、死別にしたんだよ。そのほうがいいからな。詩織がいじめられても困るだろうしね。結果としては良かったんだよ」
「だって、拓海君のことまで忘れちゃってるんだよ?」
「仕方ないさ。あの場合はね。俺が手紙に書いちゃったら、困るだろう? だから、そうしたんだ。まさか、もう一度再会するとは予想していなかったんだろうな。俺はアパート暮らしだったから、そのうち引っ越すだろうと考えていたのかもしれない。幼稚園の思い出がなくても、困ることはないしね」
「でも」
「いいんだよ。詩織は悪くなかった。忘れたわけじゃなかった。それが分かっただけでもね」
「思い出すよ」
「いいよ、無理しなくてね。自然に任せれば」
「専門家の人に頼めば」
「さっき言ったろう? また、不安定になっても困るからね。だから、ゆっくり考えていこう。そのほうがいいさ。お母さんの思い出を思い出したいのか?」
「違うよ。そっちはどうでもいいよ」
「どうして?」
「お母さんのことは、よく分からないもの。下手に先入観がないほうがいいのかも。思い出したところで、辛いことも多いなら、そのままでもかまわない。でも、拓海君の方は思い出したいの」
「普通、逆だろう? 親を優先しないか?」
「あの人が、私や父のことを優先する人だったら、そうしていたかもしれない。でも、あの人は私達より仕事を選んだ人だからね。だから、そこまで無理したいとは思わない。母と言われても、どこか淡々とした感じがするの。母のことは考えてはいたの。どういう人だったんだろうって。でもね、父とおばあちゃんおじいちゃんに聞くと辛そうな顔をするの。そういう思い出しかないの。だから、聞きたくなかったの。聞けなかった。そういう人だから、無理して思いだすこともしたくないの。なんだか、みんなに悪くてね」
「そうか」
「そういう人なの。私に取ってはね。大事なのはおばあちゃんや父やおじいちゃんが私を大切に思っていてくれたんじゃないかなっていう気持ちなの。母よりもそっちが大事」拓海君は黙って聞いていてくれた。
「だからね、母のことはそれほどね。それより、拓海君の方に悪くて。なんだか、色々あったようだし。楽しそうな思い出が多そうだし」
「いいよ、俺に取っては大事な思い出だし、お前は徐々に思い出すかもしれないし」
「やだなあ。一人だけで楽しんで。早く思い出したいなあ」
「ゆっくりでいいさ、それより、お前が良く転んだ所を教えろ」と言ったので、
「もう」と拗ねた。

「やっといたぜ」と言ったので、困ってしまった。遠くからでも、絶対にその自転車の乗り方はあいつだなとは思っていたけれど、近づいてきて目の前に止まって、ため息をついた。
「なんで、そんなにいるのよ」と睨んだ。太郎と三郎と道子と中川の家の一番下の当時中学生だった、今は大きくなったなあと見上げるぐらいになった悠太まで一緒だった。
「誰だよ、そいつ?」とみんなが睨んでいて、
「えっと……」と拓海君を見ていて、
「はじめまして、同じ中学の山崎だよ」と彼が自己紹介していて、
「ふーん」とみんなが面白くなさそうだった。
「そういう顔をしないでよ。えっとね、こっちから」
「太郎に、三郎? 道子ちゃんかりっちゃんだろう? それから、多分、中川さんちの一番下」と拓海君が言ったため、
「なんだよ、そんなことまで話したのか?」と太郎が面白くなさそうだった。
「部活とかは?」と聞いたら、
「俺も三郎もテニスと吹奏楽の掛け持ちだけれど、今日は無理やり休んだ。岳斗《やまと》と次郎は出てるよ」なるほどね。
「しかし、手紙くれなくなったと思ったら、こんなヤツと。お前、詩織のなんだよ?」と太郎が拓海君を睨んでいた。
「恋人」と拓海君が言ったため、
「ほら、言ったじゃん」と道子が笑った。
「なんだとお〜! 俺と詩織はなあ、結婚する予定なんだぞ」と太郎が言ったため頭を抱えた。
「待て、お前のものと決まっていないぞ。俺の方が、話は先だったんだ」と悠太まで言い出して、呆れてしまった。
「しかし、物好きだよなあ。悠太も太郎も、それに岳斗《やまと》だってまんざらでもなさそうだしな。次郎と俺だけだよなあ。詩織を嫁候補としては見ていないのは」勝手に裏で何を言ってるんだろうね。
「何よ、私がいると言うのに」と道子が不満そうだった。
「ふーん、勝手なことを言ってるよな」と拓海君も面白くなさそうだった。
「こっちのほうが先なんだぞ。抜け駆けするな」と太郎が怒っていて、
「だよな」と悠太が言ったため、呆れてしまった。親が勝手に言い出したとばかり思っていた。いつのまにそんな話になったんだろう?……冗談だとばかり思っていたのに。
「嫁は貴重なんだ。お前は諦めて、他の女にしろ。いくらでもいるだろう?」と悠太が言い出して、
「あちこちいくらでもいるじゃないの」と呆れた。
「こんな田舎にいる女でおれが気に入るのは少ない」いるにはいるんだ……。
「だよなあ、道子じゃ絶対無理」と三郎まで言い出して、呆れるなあ……と思った。
「こっちも願い下げ」と道子とやり合っていた。
「こっちも困るな」と拓海君までが言い出して、
「拓海君まで乗らないでいいから」と頭を抱えた。
「そういうわけにはいかない。とんびに油揚げを取られても困るからねえ。それに優先順位だと俺が一番最初だ」
「なんだよ、それ?」と三郎がバカにするように言って、
「だから、一番先だよ。俺も申し込んであるから」と拓海君が言い出したため、何を言ってるんだろう?……と驚いた。
「何言ってるんだか。俺達は小学校のときに」と太郎が言い出して、あほだ……そんな小さい頃の事を真に受けるわけが……と考えていたら、
「だから、俺の方が先だよ。こっちは幼稚園の時だから」と拓海君が答えたため、開いた口が塞がらなかった。
「ははは」と向こうが笑い出した。当たり前だ……幼稚園と言われても……。
「笑い事じゃないさ。ちゃんと申し込んだしね。それに返事はもらってるし」と拓海君が笑っていて、意味が分からない?……と聞いていた。
「返事って?」と悠太が聞いていて、
「だから、詩織に申し込んだんだよ。『いつか、迎えに行くから』と言っておいたし、プロポーズもしてあるからね。もちろん、『OK』ももらってあるし」おーい、知らないよ……勝手なことを言ってる。
「本当か?」と聞かれて、
「疲れた。その辺で勘弁して」と言ったら、向こうが笑い出して、
「自転車で案内してやるよ」と言われたけれど辞退した。
「疲れたから、今度ね」
「お前なあ。もっと、遊びに来いよ」
「無理だよ。遠いもの」と言ったら、みんなが笑っていた。

「呆れてものが言えないよ」と歩きながら言った。
「しかし、予想通りの姿形をしていたなあ。すぐに分かったぞ」
「はいはい、そっちも呆れるよね。どこか見たいところある?」
「川は?」
「この時期だと寒いから却下。他は?」
「小学校ってどこだよ?」
「あっち」
「見えないぞ」
「だから、遠いんだって。毎日走って帰ってたよ。それでも、時間がかかるんだよね」
「そうか、中学校って行ったことはあるのか?」
「高校も全部すぐそばだよ。小学生だと危ないから、みんな同じ時間に話しながら登校していた。帰りはそれでもさすがにバラバラだったけれどね。岳斗《やまと》君とか太郎はいつも同じ時間に帰ってくれてたよ。危ないからって、よく転んでいたからね」
「分かる気もするな。しかし、本当に田舎だな。蛍がいるだろうなあ」
「拓海君の方も行ってみたいね」
「あそこよりは都会だけれどな。自然も何もない家と団地があるだけだぞ。面白みもない場所だ。でも、秘密基地はあったけれど」
「面白そうだね」
「ああ、そうだな。色々探検したよ。ここなら、いくらでもあるな」
「ありすぎてね。でも一人では遊んではいけない規則になってるの。危ないからね」
「だろうな。ここじゃ怪我したら危ないよな」
「でも、面白かったよ」
「逆上がり上がれなさそうだよな」
「いいの、そういうことは」
「木登りはどれだよ」
「あそこ」と遠くを指差した。上りやすいのが、あれぐらいしかなかったなあ。他はあったけれど、もっと奥のほうだしね」
「面白い所だよな。来て良かったよ」
「でも、なんだか恥ずかしいよ」
「こういうところで育ったんだな」と彼が色々と周りを見回していた。

 夕方に帰るときに、父が疲れた顔をしていた。おばあちゃんは私と拓海君に何度も謝っていて、なんだかどう言っていいか、分からなかった。
 車に乗ってから、ずっと考えていた。母の記憶があったとしたら、どうなっていたんだろうな……と、あまりに揺れるので、さすがに寝たほうがマシかも……と考えてしまったけれど。
 父はずっと無言で、私は拓海君が時々、こっちを見たので、どうかしたの?……という顔で見返していて、彼は優しく笑っているだけだった。

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