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トラウマ

 家事を一通り終えてから、午前中に買い物に一緒に行き、父が、遅いだの、重いだの、ぶつくさ言っているのを聞き流していた。
「出かけてくる」と父に言ったら、
「あいつ、大丈夫なのか? 一応、男だろ。年頃の男女が一緒に勉強するのは」と言い出したのでびっくりした。父は日曜でもいなかったため、把握してなかったらしく、よく一緒に勉強しているという話を母からでも聞いているのかもしれない。
「あなたの場合は娘の心配するポイントがずれているね」と言ったら、困った顔をした。
「あいつだって分からないぞ。男は狼だし」
「大丈夫だと思うよ。お坊ちゃまだし、しつけもされているみたいだね、挨拶とかしっかりしているから」
「本当か? 大丈夫なのか? 向こうの親はなんて?」
「お父さんって、父親になったり子供になったり変だよね」と言ったら、
「どう言う意味だ?」と聞いてきた。
「おばあちゃんに迷惑掛けたりしないでね。ちゃんと家事もやるんだよ。子供に家事一切押し付けて、夜遅くまで遊んでいる親だと、学校に注意されるんだって」と脅すように言ったら、態度が怯えていて、
「海星の子があったんだって。昼食がお弁当じゃなくてパンばかりだと注意を受けてたらしいしね、夜に仕事をしている親の家で友達が入り浸ってたんだって。それで悪い事をその家で集まってしてたから、それも注意を受けたらしいよ。うちも実体を知られたら、きっと言われてたね。さすがに恥かしくて言ってないんだから、口裏合わせてね」と言ったら、
「そんなこと言わなくてもいいだろ。俺は仕事で疲れて」
「遊びだってしてたじゃない。なんだか、お母さんに知られてしまって恥かしかった。ジェイコフさんが怒るの無理ないよ。娘の進学、就職、結婚の心配なんてこれっぽっちもしてないね」とぼやいて逃げるようにして家を出た。今まで言えずに我慢していた事が、さすがに限界が来ているようだ。

 玄関を開けて、いつもの挨拶をしていたら、半井君が私の鞄を見ていた。
「なに?」
「お土産は?」と聞かれた。なにかあったっけ?……と考えていたら、
「明日は何の日?」と聞かれて、
「さぁ、何かあった?」と聞いたら睨んでいた。
「なんだっけ? いいじゃない、寒いから入れて」と言ったら、
「忘れてるだろ。大事なものを」と言われて、彼の顔を見てから、
「ああ、ひょっとしてチョコレートとか?」と聞いたら睨んでいたので、
「いるの?」と聞いたら、叩かれてしまった。
「痛い」と擦っていたら、
「お前の場合は教育しなおさないとな」
「いいじゃない。明日、いっぱいもらえるよ。それでいいと思うけど」
「普通はくれるだろ」
「そう? 義理ではあげないほうがいいのかと思っただけ。あれは女の子が好きな相手にあげるものだから」と言って中に入ったら、
「☆もし俺に愛と感謝があるならチョコレートをくれるはず」と英語で言われて、
「買ってないよ」
「お前は絶対に冷たいよ。これだけお世話になっておきながら」
「ああいうのはちゃんと気持ちがある人が贈るものだよね」と笑ったら、
「ふーん」と気に入らなさそうだった。
 部屋に上がってノートを出していたら、ジュースを持って半井君が部屋に入ってきて、
「母親達が戻ってくるかもしれないけどな。そうしたらうるさいから覚悟しておけよ」と言われて、
「どう言う意味?」と聞いた。
「あの人たちは人のことなんてお構いなしだってことだ。まぁ、いいや。百聞は一見にしかず」と言われて、
「そう言われてもなんとなく気になる」と言ったら、
「チョコもくれない女には説明は省く」と言われて困ってしまった。
「小学校の時にもめたことがあるんだって」
「何かあったのか?」
「女の子が複数の男子に義理チョコを贈ったの」
「ふーん」
「海星やこの辺の小学校だと渡してない子が多くてね」
「ふーん、そうなのか?」
「それで、ある女の子が友達としてあげたんだけど、相手の子が誤解して自慢して歩いたらしいの」
「男ならそういうやつは、いるよな」
「ところがその女の子の本命は別の子で、その相手が怒っちゃったらしくてね。喧嘩したんだって」
「小学生ならやりそうだ」
「他の問題もあったの。大勢の男子に渡して人気取りだと周りの女の子達が言ってたの。やっかんだらしくて」
「それもありそうだよな」
「それ以外にも色々聞いた。私はそういうのが疎くてあまり知らなくて」
「ふーん、それと俺にチョコを持ってこないことに何の関係が?」
「だから、義理チョコも気をつけたほうがいいのかと思って」
「それで俺にはくれないってことか。ふーん」と気に入らなさそうだった。
「だって、チョコレートを渡してる子はそれほど多くないと聞いたよ。本宮君とか、一部の男子以外もらってるのは見たことがない」
「みんなが見てるところでは渡さないんだろうな。日本人ならね」
「向こうだと違うの?」
「カードは贈るよ。花と一緒にね。友達同士のカードならいっぱいあげているらしいな。グループではあったようだ。俺はそういうところはマメじゃなかった」
「ふーん」
「お前の場合は俺に対して誤解があるみたいだけど、まぁ、いいや、説明は後だ。始めよう」と言われて、そんなにほしかったんだろうか? と、考えてしまった。

「時制は現在、過去、未来に分かれてるけど、とりあえず、現在完了形から説明すると、…………」と説明してくれたけれど、それでも分かりにくかった。
「実際はさ。英語に直す時、あれ、どっちだろうと迷うものなんだよ。だから……」と説明してくれた。
「こういうのは数こなすしかないからな」と言われて、
「そうだね」と考えていた。
「実際に会話してると、あれ、どれだっけ?……と思う事は結構あるからな」
「そうなの?」
「仕方ないさ。日本語の感覚と違うわけだしね」
「なんだか、ややこしい」
「そういうのは頭で整理していくしかないさ。後は練習問題。高校生以上の文法もやっていかないとな」
「そうだね」とため息をついた。

 しばらく、学年末テストの勉強をしてから、
「コーヒーでも入れてくるよ」と彼が立ち上がっていた。なんだか疲れたなと後ろにあったソファに横になった。ここに来てるのを拓海君には言ってあるけれど、父が言うように誤解する人もいるかもしれないな。あの人の場合は昔何かあったようだし、でも、前とは印象は違ってきていた。意外と真面目なのかもしれない。よく分からない印象だった。冷たいように見えて、こうやって自分の時間を潰してまで勉強を教えてくれるのはやはり優しいからかもしれない。最初の印象が悪いと、その後、いくら変わってきていても中々前の印象が消えないのかも。楢節さんと同じかもしれない。あの人は今頃、何人と付き合ってるんだろうなと目を閉じていたら、彼が戻ってきた。
「疲れたか?」
「大丈夫。一人でやるより怖くないから」
「どういう意味だ?」と言いながらコーヒーを机においてくれたので、
「ありがとう」とお礼を言った。
「夜が怖いの。冬なんか特にね。あの辺りは車はめったに通らないからあまりうるさくないし、そのせいで一人でいると怖くて、ラジオをボリューム絞ってつけておかないと、部屋の『ミシッ』という音でも怖いの。父が帰ってくるのは遅いし」
「仕事なら分かるが、小学生の時から、女の子一人で留守番させるのはちょっと目に余るな」
「そうだね。そういうこともよく分かってなかった。余所の家だとお母さんが料理を作ってくれてとか、そういうこともわかってなかった。小さい頃から、おじいちゃん達と住んでいたし、近所の子が絶えず遊びに来てくれる環境から、いきなり一人になったからね」
「それじゃあ、寂しいな」
「半井君は?」
「俺か? そうだな。俺はマイペースなんだよ」
「そうみたいだね」
「小さい頃はさすがに寂しかった時もあったな。でも、そのうち、一人のほうが気楽になった。遅くまで起きていても誰にも叱られない。どこに遊びに行っても文句も言われない」
「そんな……」と思わずうつむいた。
「そうだよな。お前はそう思うかもしれないけど、俺はそうだった。その後、ナタリーが家に入り浸ってそのうち結婚した時は最悪だった」
「ナタリー?」
「義理の母親だ。一之瀬に似てると教えたよな。あいつはパーティー好きの女だ。着飾るのが好きで騒ぐのが好きで、注目されるのが何より楽しいらしい。金髪で綺麗だから言い寄る男も多くて、前の結婚相手は年の離れた金持ちだった。そいつが急死してあいつにそれ相応の遺産が入ってきた。親父と結婚し、一応約束事を決めてからの結婚だったんだけど、金使いが荒くて大変で、俺の小遣いをあいつにもらわなくてはいけなくなった時が苦痛だった。俺と顔を合わすのは酔っている時が多くて、『くれ』と言っても聞いてない。何度も催促すると、『うるさいわね、かわいくないガキ』と言うような事を言ってくる」と言ったため顔を背けた。
「そういう女だと割り切ってはいたが、好きになれなかった。挙句が俺の小遣いがなくなったんだ。俺のために用意してあったお金を使い込んで、『最初は使ってない』と言い張り、途中で『俺が使った』とか言い訳して、結局、あの女は開き直って返さなかった。その後から、親父が注意しても聞いてないから爺さんに相談して俺が自分で管理する事になった。あの女を訴えたかったけれど、もう、その時は金銭トラブルに巻き込まれていたんだよ」
「金銭トラブル?」
「あいつの弟が問題があってね。あまり素行がいいとは言えなかった。高校は一応出たけれど、という程度で、真面目ではなかったようでね。何をしてたか良く知らないけど、俺を殴ってきたことも何度もあるよ」
「ひどい」
「そういう兄弟だったからな。それで俺は自分で道場を見つけて、そこに入って練習するようになった。それまで喧嘩はしてたけれど自己流でね。でも、アメリカ人は優しい人ばかりじゃなくてね。俺のことは舐めている人も何人かいて、それもあって絶対負けるもんかとやめなかったよ」
「そう……」
「そして、ナタリーの弟が俺を殴れなくなっていた頃にはあいつは消えていた」
「消える?」
「姉の金を持ち逃げして逃げた。訴えられると困るところまでいっていて、ナタリーも動揺して俺に八つ当たりしてた。でも、弁護士に相談はしてたらしいけど、いつ離婚してもおかしくないところまでいっていて、親父は『出て行ってくれ』と言っている状態で、あいつは酒を浴びるように飲み始めてね、最後は病院に入ったようだけど」
「そう」
「そういう訳で、あいつが出て行くまで俺は荒れていたことがある。前に言ったよな」と聞かれてうなずいた。
「それがその時期だ。遊び歩いて、警察に捕まりそうになることもあったし、喧嘩に巻き込まれたことだって何度もあった。家出も繰り返していたしね。でも、一人の親切なアメリカ人が俺を救ってくれた。同じアパートに住んでいた年配のご婦人でいい人だったよ。温かくて優しくてね。見ず知らずの俺にご飯やおやつを食べさせてくれて、聖書の言葉を教えてくれたな。ベビーシッターと違って、ちゃんと俺の気持ちも考えてくれてね。話も良く聞いてくれた。早く大人になりたがっていた俺に、ちゃんと学校に行き、ちゃんと勉強し、強くなるように言ってくれたんだ。本当の意味の強さを持つように」
「強さって?」
「腕っぷしじゃなくて、心の強さだよ。友達も作れと教えてくれたのも彼女。それまで俺は人をあまり信用してなくてね。大人も子供にも冷めた目で見ていたよ。日本に来た時だけ、良い子ちゃんしてたところはあるけど、猫かぶるのもばれてたんだろうな。でも、それでは駄目だと言われてね。勉強するってことも、それなりにこなしていたけれど、栄太を見ていて、ああいうのもいいなと思った。日本人学校なんて行きたくもないし、周りに合わせるのなんてうんざりだったけど、栄太は敵を作らず上手に世渡りしていた。あいつと知り合って、あいつやフランクと知り合ってからどんどん友達が増えてね」
「フランク?」
「明るくていいやつだった。人種など関係ないと言う男でね。宗教が違う、人種が違うとかこだわる人が多いけれど、あいつはそういう部分より人間同士のつながりを大事にしていたよ。そうやって少しずつ悪いやつばかりじゃないなということは分かっていったよ。ただ、ライアンと知り合った時は結構遊んでいて、そこがお前が誤解している部分だと思う。その頃には、親父がまた女を連れ込んでいたりして家にいるのがうっとうしくて泊めてくれる子なら誰でも良くてね」うーん。
「そういう顔をするな。俺に取っては気を紛らわしていただけでね。女の子でも色々いるからね。軽い子もいれば堅い子もいる。ライアンの家にいる子はほとんどが軽いタイプ」
「ふーん」
「ライアンの家は金持ちで親が放任してたし、お小遣いがたっぷりでね。お坊ちゃまに群がってるって感じだったな。あいつ自身も悪いやつじゃなかったけど、色々と噂はあったみたいだしね」
「そう」
「でも、そのうち、行くのをやめた」
「どうして?」
「そういう事をしてるのに嫌気がさしてきた時に一人の女の子に出会った。彼女は高校生で地区が離れていたから、初めて会った時は性格だって知らなかった。宿題バイトを友達の代役で行った時に彼女がいてね。彼女は友達の分までがんばってやっているような真面目だけど要領が良くなくて、お前に似てたよ」
「うーん」複雑。
「その子は真面目だったし、俺も前ならそういう子は願い下げだったけど、あまりに要領が悪くてね、つい手伝ってしまって。その後、仲良くなっていった。話すとなんだか落ち着いてね。恋愛の相手と言うより、安らぎを感じていたんだよ。だから、彼女といつもいたくて独り占めしたくてね」
「やっぱりマザコンですか?」
「うるさいなぁ。いいだろ。年上の女性にモテたけど、その子はちょっと違ってた。温かくて包んでくれるようなタイプ。優しく笑っていてね。でも、その子と会う回数が増えていき、別の問題が起こっていたことに気づいていなかった」
「なに?」
「彼女は前園と一之瀬を足したような女と友達だった。一応、顔は何度か合わせていたけど、相手は無愛想でニコリともしないから、評判が悪くて、話すのは彼女ぐらいしかいなかった。俺と会う回数が増えて、自分と一緒にいる時間が減ったことに不満を持っていたらしくて、嫌がらせをしたんだ。俺との約束しているやり取りを聞いて、その女が、『変更になった』と勝手に伝えていたんだ。嘘をね」
「ひどいね」
「それだけで終われば良かったんだよ。でも、待ち合わせ場所で待っていても、中々来ないから高校に行ったら、彼女を見かけた人がいて教えてくれて、慌ててそっちに行ってみたら、彼女が男達に囲まれていた。車に連れ込まれそうになっていて、必死になって抵抗していた。助けてくれる人は誰もいなかった。俺は慌てて駆け寄って、何とか応戦したけれど、相手はナイフを持っていて、体格が良かったため、俺の腕じゃ敵わなかったが、相手も退散した方がいいだろうと思ったようで、腹いせにナイフで彼女の髪を切ってから、車に乗ってどこかに行ってしまった」
「ひどい」
「そうだよな。彼女は泣いていて、しばらくして警察が来た。あいつらは行ってしまったあとで、彼女はひどく動揺していたため、とても話せる状態ではなくて、俺が説明したけれど、俺が襲ったと誤解していてね。それで親を呼ぶ事態になった。いくら説明しても分かってくれなくて、親父の知り合いが頼んでくれて、ようやく帰ることができて、彼女の親は俺と親父にひどく怒ってね。事態が分からなくて、その場はそのまま別れてしまって、後でやっと、その女が嘘をついていたということが分かった時は、彼女の父親は『訴える』とまで言っていた。その女は最初嘘をついていたが、彼女に話していたのを見ていた子がいて、証人が出てきたため、やっと自白した。挙句が、『この私から離れようとするからよ』と言ったんだ。『この私をほっといてあんな中学生と遊んで』と言っていたようだけどね。その子は先生に何度も注意を受けているような問題のある生徒だったため、学校側と話し合って、処分されたようだけれど噂が流れすぎたため、転校したようだ」
「そう」
「彼女の方は父親が怒っていたため、『日本に帰るように』とまで言われてしまい、彼女は何とか頼んだらしいけれど、俺と付き合っていた事を内緒にしていたこともあって、強制的に日本に帰らされることになってね。別れる時に、『俺と会えてよかった』と言ってくれたよ。『色々あったけれど、学校に馴染めなくて英語もうまく話せなかった私といっしょに過ごしてくれて、ありがとう、楽しかった』と言ってくれて。恨み言は一切言わなかった。それより、俺に『がんばってほしい。自分は途中で挫折してしまったけれど、がんばって日本で英語を勉強するから、あなたはあなたの夢を追ってね』と言ってくれてね」
「優しい人だね」
「そうだな。恋人と言うよりお姉さんと言う感じだった。優しくて包み込んでくれて、俺になじればいいのに言わずに笑ってくれた」
「そう」
「だから、駄目なんだろうな。今でもね」
「なにが?」
「一之瀬達だよ。前に言ったろ、トラウマだよ。そういうことだ。前園、三井達、全部駄目だ。人の足を引っ張るやつ、人に嫌がらせする、嫌味を言うやつ、裏でひどい事を噂するやつ、全部駄目だ」
「そういうことがあったのなら、そうなっちゃうかもね。私も駄目だなぁ。弱いから」
「そうか? 似てるんだと思うぞ。俺もお前もね。どこかで寂しいと思っていて、でも、それを素直に口に出せない。そうして、そこに漬け込んでくるんだろうな。ああいうやつらが」
「そうなのかな?」
「お前のおかげなんだと思う」
「なにが?」
「俺が変われたことだよ。俺は前は冷めていた。日本に帰ってきたばかりのころは、向こうに残れなくて、ふてくされて歩いていたよ。お前のあの声を聞くまではね」
「そう?」
「優しい声で母親やあの人に共通するものがあってね。後でアルバム見たらそれほどは似ていないのだから、思い込みって不思議だけどね」
「そう言われても、あなたの母親になれないよ」
「分かってるよ。そういう経験があったから、馴れ馴れしく近づいてくるやつらにも警戒心が強くてね。一之瀬なんて、そばでいっぱい悪口言ってるし、俺のことも勝手な事を言ってる連中が多くて、すっかり嫌気がさしていた。赤瀬川に行けばよかったと思ってたよ。でも、霧とお前がアメリカに行く話をしていてね、気が紛れたところがあるな。霧は綺麗だったし、お前は懐かしかったしね。アメリカに行くってことは甘くないって教えながら、俺はどこかで迷っていた。もう一度アメリカに行ったほうがいいんだろうかと。大学では戻るつもりだったけれど、高校でいけなかったことが心残りだった」
「どうして行けなかったの?」
「爺さんと親父に怒られた。親父はその場限りの怒りだけど、爺さんにばれて、日本に一緒に帰って来いということになってね。それでランプトンを受験することもできなかった」
「そう……」
「彼女が帰ってしまったこともあって、せっかく、ああ言ってくれたけれど、俺も挫折したってことになるのかもな」
「違うじゃない、それは、あなたのせいではないよ」
「お前も言ってただろ。『自分のせいじゃないと分かっていても、自分の不注意から誰かが傷ついたとき、どうする?』と聞いたろ。さすがに何も言えなかったな。俺も自分を責めていたからな。もう少し周りに気をつけていれば、あの女の評判を知っていたらと」
「そんなことは、だって……」
「お前と同じだよ。だから、お前が連れて行かれたとき、ひどく動揺した。あの時と重なったけれど、その後が違ったな」
「どうして?」
「俺はもう誰かを傷つけたくないと恐れていた。だから、特定の誰かと仲良くしたり親密になったりすることに恐れと不安があった。霧に馴れ馴れしくされてもどこか冷めたところがあって、適当にあしらっていた。気分によって冗談に乗ったりしてたから、霧は誤解していた。でも、俺が興味があったのはお前のほうだ」と言われて驚いた。
「最初は母親に似てるというところから入った。話していくうちにいつのまにか助けていて、気持ちが安らいでいってね。お前が相手だと、つい、本音を話しているからな。そうして気が楽になっていったんだ。色々抱え込んでいた気持ちを一つ一つ荷物を下ろすような感じでね、そばにいると落ち着いていたから」
「そう言われても、困るんだけど。お母さんじゃないんだから」
「お母さんね。確かにそれはこだわっていたのはあるよ。父親と母親はうまくいってなかった。それもトラウマになってる。でも、あの時から分かってたんだ。あの時、連れて行かれそうになったのが霧だったら、俺はあんなに動揺していなかったということにね」
「え、でも……」
「霧だったら、もっと冷静だったと思う。霧がお前にあんなことがあったのに、無神経にも俺の部屋に来て迫ってきた時にはさすがにむっとなってね。謝ってはいたけれど反省してないと思った。そういう部分が疎ましくなって、あいつとは親密になれそうもないと、はっきり断ったんだよ」
「でも、仲良くしていたじゃない」
「昔の癖だよ。寂しいから誰かにそばにいてほしい時にね。キスしたりはしてたから」
「それはちょっと」
「日本と違って、もっと気軽にするぞ、それぐらい」
「でも……」
「仕方ないさ。そうやって寂しさを紛らわしてないとやってられなかっただけだ。でも、やめたんだよ。さすがにね。霧とお前では違うと気づいてから、考えてた」
「なにを?」
「ちゃんと付き合ってみようかという気持ちと、どこかでまた、お前まで傷つけてしまったら、という恐れがあって迷いがあったんだ。ジェイコフさんに言った時は、まだ、そこまで考えてなかったけれど、一緒に勉強していくうちに、いつのまにか山崎とお前を引き離したくなっていてね」
「あなたって人は」と呆れたら、
「仕方ないさ。恋愛に対して臆病だからな。俺は」
「どこがよ」
「お前と同じだ。どこかで自信がないんだよ」
「嘘ばっかり」
「大人に振り回されて、ナタリーとか色々あって女に夢がもてなくなっていたし、恋愛経験だってないからな」
「だって、あれだけ色々言っていて」
「全部遊び。デートぐらいはするさ。羽目外しすぎたのもあっただけ」
「それはちょっとね」
「霧も似たようなもんだと思うけど」そうかなぁ?
「お前は俺の事を誤解してるよ。俺は不器用だからな、本気の恋愛をすることに怖がっているからね。今も」
「ふーん」
「でも、ちゃんとやってみようかと思っただけだ。お前とならね」と言われてしまい、困ってしまった。彼がじっと私の顔を見ていて、
「冗談だとか、いい加減な気持ちじゃないということだけでも分かってほしくてね」と真面目な顔で言われて、
「だから、話してくれたの?」と聞いたら、うなずいていた。そういうことなのか……うーん。
「いいよ、返事は今すぐじゃなくてもいいさ。どうせ、向こうに行ったらデートもするだろうし」
「えっとね、そういうことはしないと思うから」
「そうか? 最初のうちなんて誰も誘ってくれないぞ。日本人同士だって、帰りの足がないとスクールバスに乗って、さっさと帰らないと困るからな。近くなら自転車という手もあるけれど。だから、俺ぐらいしか遊びに行けないと思うけどね」と軽く言われて、そう言われても困るなと思った。
「とにかくゆっくり考えてみろ。どうせ家庭教師は続けないといけないし」
「向こうに行ってからもやるの?」
「当然。誰がただで教えてくれると言うんだよ。向こうじゃ自力だぞ。俺ぐらいしかいないさ、こんなに優しく教えるのはね」
「どこがですか」
「そうか? 厳しくしておかないと向こうに行った時に困るのは、お前」と言われて、それもそうだなと思った。
「今は日本語が分かる俺と会話しているから、文法、発音がひどくても理解してもらえるけど、結構通じなくて困ってるやつは多い」
「そう言われたらそうだね。ジェイコフさんも母も日本語は分かるんだしね」
「そういうことだ。日本人がいると言っても、似たり寄ったりのレベルだと困るからな。だから、俺はそばにいて助けることができない分、今仕込んでいるんだよ」と言われて、
「ごめんね」と謝った。
「『ありがとう』だろ。『私にできることがあったら言って』と言え。それでいい」
「できることと言っても」
「そうだなぁ。優しく笑ってホットケーキを作り、明日はチョコが食べたいな」と笑ったので、
「あなたと言う人は」と呆れたら、うれしそうに笑っていた。
 
 しばらくぼんやり考えていた。彼は本を読んでいて、
「子供っぽいところもあり、でもクールでもあり、一部の女の子に冷たくて、でも、結構いいところもあり、絵が上手だけど変なしおりを作ってくれて」
「俺のことか?」と聞いてきた。
「あなたの印象。益々分からなくなった」
「そうか? いいと思うぞ、俺」自分で言ってるよ。
「うぬぼれやというのを追加しておくね」
「お前も少しは考えてみろよ」
「なにを?」
「山崎と付き合ってる自分のことだよ。自分を卑下するのはやめろよ。漬け込まれるのはそこだから」
「分かってるけど」
「謙遜は日本ではいいけど、アメリカじゃ意味なし」
「きついね」
「お前の場合は、向こうで、もまれても危ないよな。心配だよ。キンダーちゃん」
「卒業できそうもないね」
「いつか、絵を贈ってやるからちゃんとやれよ」
「絵?」
「飾り損ねたやつ」
「あなたの場合は意味不明な行動が多い」
「飾りたかったよ、本当はね。自信作だから」と言われて、びっくりした。
「でも、あとから考えたんだよ。迷った末に飾ったけれど、それでお前がまたやられたらと思って急遽取り替えただけだ。一之瀬以外にもあったら困るからね」
「そうかもしれないけど。そう言えば、布池さんが言っていたの。霧さんの絵は時間が掛かってなくて、両隣の絵のほうが時間が掛かっているって」
「いい目してるな。さすが美術部。誰も見抜いてなかったよな。霧の絵なんて適当にさらさら描いた。お前のが一番時間をかけたよ。読書の方も寝てる方もばれないように、お前だけ気づくようにするのが手間が掛かっただけ」
「意外と気づかないんだね」
「仕方ないさ。そのためにわざわざああいう事を流したんだから」
「そう」
「まぁ、両隣も悪くないできだろう。結構気に入ってる」
「あなたの場合はやっぱり分からないなぁ。どこまで本気で言ってるのかが」
「そうか? 俺は本気で言ってる場合も多いぞ」と笑っていた。
 彼が立ち上がって紙袋を持って戻ってきた。
「お土産」と言ったので、
「なに?」と聞いた。
「家で見ろよ。それでよく考えてくれ。俺の事をね」と言われてしまい、困ってしまった。
「動揺してる」
「そうか」
「今までの印象と違うのは確か。だけど、色々聞かされてどう考えていいか」
「ちょっと刺激が強すぎたかもな。でも、俺のように親が子供に冷たいという家庭はアメリカじゃ結構多い。離婚家庭が多いし、金銭的に恵まれない家庭だってあるしね。すさんだ地域だと多かったらしい。日本でも同じだよな。親にほっとかれたり、問題があったり、だから、子供にも影響が出てくる。お前も不満はあるはずなのに、言ってないだろう?」と聞かれてうなずいた。
「俺も同じだ。聞いてくれないからな。それで言葉を飲み込む。めったに家にいない親ならなおさらだ。親をどこかで諦めながら諦めきれないところがあるかもな」と言ったので驚いて彼を見た。
「お前も自分の事を見つめなおす時期に来てるのかもしれない。だから、アメリカに行こうとしてるんだろう?」と聞かれて、
「そうかもね」と答えた。
「反抗期がお前はなさそうだからな。今度のことが初めてなんだろうと思う。どっちの親も納得してないようだけど」
「どっちって?」
「遊んでばかりいて娘にペンキ塗りまでさせておきながら、アメリカに行くことに反対している親の方と、過保護で小さい時から庇ってばかりいて、それが未だに続いていて子供の成長を妨げているのに気づいてない保護者気取りの一応彼氏」と言ったので、頭を抱えた。
「そう言われても」
「考えてみたほうがいいぞ。両方との付き合い方をね。そのほうがお前のためだ」と強く言われて、そのとおりかもしれないなと思った。
「お前の場合は心配になるからな。しっかりできるようになるには、俺の方が合ってるとは思うけどな」と言われて、何も言えなかった。

 階段を降りたら、
「帰ったわよ」とお母さんが戻ってきて、
「誰かいないの? お水ー!」と騒いでいた。お父さんらしき人が隣にいて、
「おー、久しぶりだな」と声が大きかった。半井君の顔を見てからその人を見て、似てない気がした。肩幅があって背は高かったけれど、なんだか、豪快というか派手な人だった。
「篤彦。これ運んどいてくれ」と紙袋を置いて2人が玄関先で横になっていた。
「澄江さんもお父さんもそんなところで寝ないで下さい。お客様の邪魔です」と半井君が呆れながらも丁寧に言った。
「お前の彼女か? お前も俺に似てるなぁ。まぁ、いいや、疲れたから寝るから運んでくれ」とお父さんが言って、
「あいかわらず話を聞いていませんね」と半井君が呆れていて、私の靴を取ってくれて、お父さんたちの邪魔にならない位置に置いてくれた。
「気をつけて帰れよ」と言われてしまい、
「大丈夫なの?」と聞いた。
「ラララ〜♪」とすごい声量でお母さんの方が歌いだした。
「澄江さん。ここは玄関です。防音装置のある部屋で歌ってくださいと何度もお願いしています。近所から苦情が出ているのでやめてください」と半井君が止めたけれど、
「眠いわあ。ああ、疲れた。ベットに運んでよ」とお母さんが言いだして、
「ほら、聞いてないだろ。二人とも、いつもこれだ。会話がかみ合わない。お前は帰った方がいいぞ」と言われて、彼がため息をついていた。
「大丈夫なの?」と聞いたら、
「俺が運ぶしか、しょうがないさ。親父はその辺置いておけばそのうち、気づくさ」と足でちょんちょんとつついていた。
「おーい」と注意したら、
「霧と一緒だ。酔っ払ったやつはほっとけばいい。風邪を引こうが知ったことじゃない」
「え、でも……」
「俺が熱を出しても、風邪を引いても、気づきもしない親達だ。自分達の時だけこうやって命令してね」と言った顔を見て寂しそうだったので、それ以上は言えなかった。

 家に帰る前に途中で買い物をした。チョコレート、義理ってどうやって選んでいいか分からなかった。でも、何とか選んで家に帰ってから、家事を一通り終えて、父は居間でテレビをつけたまま寝ていた。冬は寒いため遊びに行く日も少ないけれど家にいるのは珍しかった。風邪を引くといけないので、ひざ掛けを掛けてから部屋に戻った。
 半井君の寂しそうな顔を思い出して、そう言えばお土産ってなんだろうなと思い、中を確認した。入っていたのはバラの花一輪と綺麗なカードで、英語が何か書かれていて、何とか読めた。『Love looks not with the eyes, but with the mind, And therefore is winged Cupid painted blind』と書かれてあった。
「すごい」ちょっと気障かも。
「もう一つが読めない。真実の愛? 男はなんだろう? 女は?……うーん」と考えていた。名前とともに、最後になにか書いてあって、
「私はとてもうれしく思います。そこで?」意味不明。

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